入戸野修が表彰された!?


原子力大学ゼネラルストライキ委員会が、
入戸野修に表彰状をおくりました。

ぜひ、ご一読のほどを!


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表彰状

最優秀被曝促進大賞
福島大学学長 入戸野修殿



ご無沙汰しております。脱原子力大学ゼネラルストライキ委員会です。まずは福島大学入学応募者が増えましたとのこと、お祝い申し上げます。貴殿が福島大学学長として、2011年5月の時点で授業を再開され、以降、通常の大学経営に勤しまれましたこと、そしてそれによって学生、教職員の被曝に多大なるご尽力をされましたことは、ひとえに貴殿のたゆまぬ愚かさの賜であります。


無惨にも爆発した福島第一原子力発電所から60kmとない場所に位置している貴校が、いったいそのときどうするべきであったか。これは、そもそも専門性など問題にならない、まったく自明な問いであったはずです。そして、それにたいする答えは、先の私たちの手紙でも指摘させていただきましたとおり、「大学」や「学生」とはなにか、という、より根本的な問いへの答えの端緒となったはずでした。しかしながら貴殿は、5月2日づけの「学長メッセージ」において、「福島市内の放射線量は(・・・)健康被害を起こすようなレヴェルではありません」というまったくの嘘を吐かれたのを最後に、授業を再開され、学生たち、教職員たちに被爆することをしいた。そして、その状況は、あれから一年がたった今も続いているわけです。


10月5日づけの「メッセージ」において貴殿は、「社会的、経済的要因を考慮にいれながら、合理的に達成可能な限り、低く抑えるべきである」というALARAのものである被曝についての考え方を、まったく場違いにも引用され、ご自身の下された判断を正当化しようとされているようですが、こと貴校におかれましては、そのような考え方がまったくの無意味であることは、ほかならぬ貴殿ご自身が、だれよりご存知のことと思われます。この度の入学応募者増加についても、それにさいしてどれだけの嘘がまき散らされたことかは推して知るべしといわざるをえない。指摘させていただくのも馬鹿馬鹿しい話ですが、貴校にあって、被曝を低く抑えることなど、どう考えても合理的には不可能です。授業を通常どおり再開するという判断をなされたときに貴殿の念頭にあったのは、まさに「社会的、経済的要因」以外ではなかったといわざるをえません。


福島大学は社会や経済の利益を優先させるための大規模な人体実験の会場であるのでしょうか。違うはずです。それはいまでも大学であるはず、大学になりうるはずです。そして、大学とは、学生とは、なによりも経済と社会という、この二つの要因に抗して生まれてきたものだったはずではないでしょうか。なしくずしの被曝は生の早送りを意味します。学生はこれまでも、経済効率や社会的「絆」にからめとられることで、その生の時間を早送りさせられてきました。早送りされる身振りはどこか哀しく滑稽で、その言葉が聞きとどけられることはありません。理由も分からず一方通行にせき立てられた結末にあるのは、社会人となること、社畜となることです。


3・12以降の私たちをなにより驚かせたのは、原子力発電所の爆発という事態をうけて公然と可視化された社畜の論理です。事態の推移は当初の私たちの予測をはるかに上回りました。いまやこの国でチェルノブイリを超える公害事件が起きていることに議論の余地などありえません。ですが、貴殿もよくご存知のとおり、この一年間、一日たりとも資本の、社会のデモンストレーションが止むことはなかった。原発が爆発してなお、未曾有の被曝を経験してなお、粛々と日常へと立ち戻ろうとしたのが社会であり、それを担ったのが、ほかならぬ社会人たち、社畜たちであったわけです。


しかし、大学とはほんらい、中断や停止の層にあるなにものかであるはずです。静止画どうしのモンタージュが予測のできない流れを生む。貴殿は『福島大学要項2011』のなかにおいて、「被災を体験した大学ではの、既存概念に囚われない新しい「知」の創造を目指すこと」を謳われております。私たちもそのような新しい「知」の創造がなされることを熱望するものです。ですが、そのような「知」を生みだせるのは、残念ながら、あなたがあげられている、「地域の復興に向けて具体的に行動する組織「うつくしまふくしま未来支援センター」」の設立や、「原子力防災、社会防災や復興計画に貢献する人材」の育成といった、人体実験的、自殺行為的な取り組みなどでは断じてなく、そうした社畜的流れを停止させることによるほかないでしょう。


格言のお好きな貴殿のために、僭越ながら私たちからも右のような格言を送らせていただきたい。「どんなことも、7代先まで考えて決めなければならない」。これはアメリカ・インディアン、イロコイ族の格言です。このまま「経済的、社会的要因」にまみれた日常へと固執しているかぎり、福島大学がつきすすむことになる道は、学生の社畜化への一本道、進行中の公害による健康被害へといたる一本道となってしまうことはあきらかです。7代どころか、当代の学生たちの健康被害や自殺があっというまに現実のものとなるでしょう。私たちは貴殿にあらためて呼びかけたい。ゼネラルストライキを、一方的な死への早送りを止めるために、いますぐにストライキを。被曝地帯から退避して、ばらばらになるために、社会から脱出して、無数の流れを生みだすために、いますぐにストライキを。


イロコイ族の格言だけでは納得できないでしょうか。それではもうひとつ、日本の坊主からあなたに素敵な詩をお贈りいたしましょう。


 身を観ずれば水の泡、消えぬる後は人もなし
 命を思へば月の影、出で入る息にぞ留まらぬ


これは一三世紀、一所不住を唱えた一遍上人の詩です。鎌倉時代、権力者たちは要所要所に豪華な寺を建て、ばかでかい仏像を築きました。民衆がそこに崇め奉りにくるのはあたりまえ、仏像を所有している自分たちに従えとでもいわんばかりに。民衆を寺に、そして寺がおかれている土地に縛りつける権力者の傲慢。はたらけ、帰依せよ、服従せよと。ですが、一遍上人は気づいてしまったのです。仏とは、なんの見返りももとめずに恩恵をあたえてくれる存在ではなかったのか、無償の愛を注いでくれる存在だったのではなかったのか、そしてそれを表現するのが信仰だったのではないかと。そうだとすれば、そんなこと普段から誰でもやっていることですし、人間にかぎらず、草木でも犬畜生でもやっていることです。仏はどこにででもいる。それなのに、寺は人間をただ一つの土地に縛りつけ、無数の仏との出逢いを妨げようとしている。それは仏をばかにする行為ではないのか。恩着せがましく見返りをもとめ、服従と帰依を強いてくる権力者は悪なのではないのか。仏になろう、草木になろう、犬畜生になろう。寺を捨て、土地を捨て、放浪の旅にでるまさにそのときに唄ったのが、この詩です。寺をさり、出世の道をあきらめろと説くことは、はかなく無常なことかもしれない。しかし、その無常のなかにこそ、無になることにこそ、仏にむかう無限の可能性がはらまれている。
「着飾れ、踊れ、笑え」(Parez-vous,dansez,riez)。


さて、これは私たちからの以前の手紙でも申し添えさせていただきましたところですが、あらためて確認させていただきたい。鎌倉時代ならいざしらず、いまは貴殿もたびたび強調される「21世紀」です。一所不在には、カネがかかる。放浪するには、カネがかかる。被曝地帯を脱出するにはカネがかかるのです。欲しい、欲しい、カネが欲しいのであります。入戸野さん、カネをください。われわれに、学生に、非常勤講師にカネをください。いつでも歓迎です。


それから、貴殿にお願いしたいのは、貴殿をクビにしてください、ということです。彼は自分では決断できなくて迷っているのでしょうが、本当は放射能による健康被害を怖れているし、疲れを自覚してもいるのです。彼は実家に帰って、しばらくブラブラすればいい。それでダメになる人間かもしれないですが、大丈夫です。表彰状を贈っている相手に、クビになってくださいとお願いするというのは前代未聞のことだと思いますが、私たちももう自分たちがなにを書いているのかわからないところでこういう無理なお願いをしているのです。もしいま彼を手放すわけにはいかないというのなら、名古屋にニュー福島大学をつくってやってください。よろしくご検討くださいますようお願いいたします。大学はどこにでもある。犬畜生でも大学になる。私たちの大学ゼネラルストライキは、一所不在のストライキであります。合掌。


現状においては、貴殿が学生、教職員の被曝を促進しつづけてきたことは動かしがたい事実です。それは、これからおこなわれるだろう忘却、風化、すっとぼけのためのいかなる措置に抗して、人類史にとどめられるべき「偉業」といえましょう。よって、その偉大なる功績を讃え、ここに表彰いたします。貴殿におかれましては、どうか私たちの表彰をお受けいただき、あらためて懸命な判断をなされますことを切に願っております。


2012年3月12日
原子力大学ゼネラルストライキ委員会