新しいラッダイトの神話政治


学会で奨学金の話があるよ!

 ※ 社会思想史学会: http://wwwsoc.nii.ac.jp/shst/


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社会思想史学会セッション報告
タイトル: 続・奨学金給付の思想
―― 認知資本主義における新しいラッダイトの神話政治
世話人: 仲田教人(早稲田大学政治学研究科)
報告者: 入江公康明治学院大学他非常勤講師)
     栗原康(武蔵野学院大学非常勤講師)
     白石嘉治(上智大学非常勤講師)

日時: 10月24日 14:00〜16:00
場所: 神奈川大学 横浜キャンパス 23号館210


 本セッションでは、認知資本主義における新しいラッダイトの神話政治について報告をおこなう。認知資本主義は、人間の認知能力を商品としてあつかい、それを搾取することによってなりたっている。知識、情報、情動、サービス、コミュニケーション、等々。身体のふるまいもイメージと考えれば、人間の生そのものが商品化の対象になったといえる。一見したところ、それは人それぞれの個性ある生き方が生産活動に活かされるようになったことを意味している。昔であれば、労働者は経営者の命令にしたがって仕事をするのが常であったが、いまでは自分でものを考えることや、プライベートのように人づきあいすることが仕事になっている。もちろん、そこには資本のコントロールがはたらいており、評価選別がなされている。就職やキャリアアップのために、だれもが個性あるふるまいをもとめられているが、そうすればするほど、生が狭隘化され、疲弊させられているのである。
 こんにち、わたしたちに問いかけられているのは、「では、どうすればいいのか?」ということである。本セッションでは、この点について、大学という文脈をいれて検討するつもりである。言うまでもなく、大学は知的生産の一大拠点であり、ある意味で、認知資本主義のシンボルである。だが同時に、大学は知的生産の拠点であったがゆえに、市場とは異なる論理のはたらく場所でもあった。知識は「コモン」とよぶべきものであり、ほんらい私的所有の論理にはなじまない。知識は使ってすり減るものではないし、使えば使うほど豊富化されて共有されることになり、共有された知識が前提となることで、さらなる知識がうみだされていく。だから、知識はだれかに専有されるものではなく、商品としてあつかわれるものでもない。こうした考え方から、大学は無償であるのが当然と言われてきたのであるし、「コモン」という観点からすれば、学生も教員とおなじように知識を豊富化させていることから、賃金相当の奨学金を給付するのがあたりまえと言われてきた。
 こうした「コモンとしての大学」を土台にするならば、認知資本主義はいまとはまったく別物へと変容することになる。すべての人が知的生産をおこなっているのだから、大学の奨学金とおなじように、すべての人にベーシックインカムが給付される。人間の認知能力が選別され、商品化されることなく、あらゆる人に共有され、無限に豊富化されるものになっていく。だが、現状そうなっていないのはたしかであるし、認知資本主義のもとで生が狭隘化され、大学の無償性にしてもその先駆であったヨーロッパで崩れはじめている。「では、どうすればいいのか?」。一九世紀、産業資本主義が形成されだしたころ、イギリスではラッダイト運動とよばれる機械打ち壊し運動がおこった。勝手にすすんでしまう機械化の物語をいったんとめて、そこにまったく別の神話政治をうちたてること。おそらく、いまの認知資本主義にたいしても、おなじことが必要とされている。コントロールされた生の歯車をとめる新しいラッダイト運動。そこから立ちあがる認知労働者の神話政治。本セッションでは、その思想と実践についてささやかな問題提起をしたいと考えている。